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八月三日、水曜日、快晴。
その日もだらだらと仕事を切り上げた刈田は、帰宅を急ぐサラリーマンや
OLに混じって、梅田から阪急電車の先頭車両に乗った。それは、刈田が降
りる清荒神駅の改札口が、最短になるからである。
「あ~」
刈田がいつものように、間延びした、ため息混じりの欠伸をした。
車窓越しに映っている自分の姿を見て、俺はいったい何をしているのだろ
う、と心の中で呟いた。
徐にコートの右ポケットに手を突っ込み、昨日買った英語本が入っている
のに気付いた。『ジョーダン・ヨシタのイケイケ英会話』――刈田は、《はじ
めに》と書いてあるページを開いた。
――《はじめに》イケテない君、この本は君にとってはコロンブスだ。ア
メリカ大陸発見だ。いや、里見八犬伝だ。少しは笑ったか?
刈田は正直なところ、少し笑った。
――当たるも八卦、当たらぬも八卦。“八卦宵”残った、だ!
何が言いたいのか、さっぱり分からない。
――さっぱり分からないだろう。言葉なんて“伝達アチャコ”だ!
駄洒落も、何となく古臭く感じる。そう思った刈田は、本を閉じかけた。が、
突如目の前にゴシック体の派手な赤の文字が浮かび上がり、あたかも交差点で
凍り付くように思いとどまった。
――これが当たっていたら、読み続けた方がいいぞ。
刈田は、慌てて次のページを開けた。
――外国人に「ウェア・パンスト、ウェア・パンスト」と話し掛けられて、
「ノー・マインド、ノー・マインド」と答えたことがあるだろう?
刈田は自分の眼を疑った。
――実はこれ、「フェアーズ・ザ・バストップ、バス停はどこですか?」と言
ってるんだよ。
眼から鱗が落ちるとは、このことか!
会田は宝物でも発見したかのように、目を吊り上げ、次のページを捲った。
「お客さん、終点ですよ!」
ハッとして周りを見渡すと、最寄りの清荒神駅を乗り過ごして、終点の宝塚
駅まで来ていた。
本を読んで乗り過ごしたのは、刈田の人生、これが始めてだった。
というわけで、いつもより十数分遅く帰宅した。
「あんた、どうしたん?」妻の乃代が心配して尋ねた。
「乗り過ごしてしもた」へぇ~と、気のない返事の乃代。「晩飯は?」
「今晩はインスタントの“月進焼きそば”やけど」
「あぁ」
クーラーの無い四畳半の部屋に入ると、ムッとした。
毎度のことだと分かっているが、やはりこの暑さには耐えられない。電気
代をケチっている身を忘れ、扇風機のスイッチをオンにした。
パンツ一枚になり、早速、例の英語本を取り出した。
――《第一章》まさか! キミは第一章を読み始めたのか? すごい! 天変
地異だ、地位協定だ。大概の読者は《はじめに》を読んで、馬鹿らしくて
ごみ箱行きにするのだが、君は第一章を読み始めるという、驚異的なステ
ップを踏んだわけだ。何とその可能性は百万分の一!
「ねえ、あんた、野菜がないけど」
「うん」
――じゃ、《今日の一言》。「人生に感動しない奴は、語学はやるな!」。
キミは感動しない、って? じゃ、関西人は関東に行って「竹刀」を持て!
関東人は・・・悪いけど、今、答えはない。いや、待て・・・思いついた。
「勘当」されても仕方がない。
また下らん冗談か。やや癇に障ったが、今度は本を閉じようとはしなかった。
何故なら刈田には、百万分の一に選ばれた、という自負心があったからだ。
――そこでだ。感動しない奴にも望みはある。その望みとは!
「望み、とは?」刈田は思わず反復した。
「あんた、明日出張なん?」
「なんで?」
「“のぞみ”って言うから」
乃代の久しぶりのベタな返しが、刈田には心地良い。
――そう、ニューヨーク、ビッグ・アップル に行って来るがいい!
なんで、また? 読者は海外に行って英語を勉強できないから、この本を買
って読んでいるんじゃないか。それなのに――。結局この本は、バチ物だ。だ
いたい、ニューヨークに行く金がどこにある。
刈田は苛立った。
「あんた、焼きそばができたよ」
乃代の言葉に弾みをつけて本を閉じようとしたが、魔訶不思議。二度目の偶
然に遭遇した。
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