長編社会派ミステリー小説『謎のルージュ』~立ち読み~

こんにちは、Frankです。

拙作の長編社会派ミステリー小説『謎のルージュ』の梗概と立ち読み
をご紹介します。ご一読いただければ幸いです。

【梗概】

中堅総合商社、総大物産の中南米課に勤務する若手商社マン綾野高次。
入社二年目の冬、海外出張要員に任命される。その数日後、上司の烏
課長が鹿児島への帰省途上、機内で殺害される。綾野は先輩の目島隆
夫と共に、死体安置所のある松山へ。烏が殺害された便と同便に、メ
キシコの日本人会の会長が搭乗していたことが判明する。その後、神
戸の自宅に戻った烏の妻、寛子に無言電話が数回。警察の捜査が進ま
ぬ中、仕事での焦りと事件解決の狭間で葛藤する綾野。そんな綾野が
癒しを求めた女性とは――。綾野の中南米出張のXデイに、全てが空
港で明かされる。総文字数約120,388字)、Frank渾身の長編社会派ミ
ステリー小説。ソフトカバーのペーパー版に若干の加筆・修正をした
Kindle版。《Frank☆World》をご堪能ください。

【立ち読み】

  * ――プロローグ

 床に落ちたメモ用紙が、黒のパンプスの下に、忽然と消えた。
 高井尚美は、踵の痛みを訴える仕草をして、すぐさま紙片を拾い上
げた。
 高層ビルの裏通りに面した、寂寞とした空気が漂ったファミリーレ
ストラン。尚美はコーヒーを啜りながら、ベルベストのネイビースト
ライプスーツを着た男の、次の言葉を待っている。
 一九七九年十一月六日、火曜日。
 柱時計は夜十時を指した。
「淡路島一泊は、どうだ」
 淫靡な電流が流れたのを受けて、尚美は「淡路島?」と呟き、片眉
を上げた。
「今度の金曜だよ。――六時半、この裏手の駐車場の前で待っている」
 烏の重い声が、尚美の鼓膜を舐めた。宙を彷徨っていた視線が、ふ
っと止まる。
 男は烏譲二、三十二歳。私大の外国語学部のスペイン語学科を卒業
後、大阪市中央区の堺筋本町にある中堅総合商社、総大物産に入社。
昨年の四月、輸出部中南米課の課長職に就いた烏は、今年で入社十年
目になる。背広の左襟のフラワーホールには、総大物産のイニシャル
《S》を模った社章が光っている。彫りの深い顔つき、身長一メート
ル七十八センチの体躯、そしてスキのないスーツの着こなしを見れば、
誰一人として、烏が国際舞台で活躍する商社マンであることを疑う者
はいないだろう。
 ショートヘアの高井尚美は、烏と同じ会社の船積課に勤務している。
短大の英文科を卒業後、総大物産に入社、今年で八年目になる。美人
とは言えないが、時おり覗く乱杭歯が尚美の茶目っ気を演出し、男性
社員の間では〝話のしやすい女性〟で通っている。
 総大物産の年商は八十五億円。従業員は七十名。家電製品の輸出が
売上の八割を占め、残りの二割はブラジルから輸入した建築用石材の
国内販売による。輸出部は仕向地ごとに欧米課、中南米課、中近東課、
アフリカ課、アジア・オセアニア課に分かれ、セクションごとに五、
六名の営業スタッフがいる。海外の船積業務を担当する船積課は、輸
出部・輸入部両事業部の管轄下にある。
「欧州向けのシップメント(船積み)は、もう一段落しただろう。君
は五時半に退勤して、いつもの喫茶店でパフェでも食べて、時間をつ
ぶしておいてくれ」
 烏は無造作に、右手でコーヒーカップを回し始めた。
「しょっちゅう行けば、気付かれるじゃない」
 尚美は険のある顔をした。
 烏の一方通行の性格は、いつも二人の口喧嘩の原因になっていたが、
烏のこうしたきかん坊的なところが、尚美には魅力でもあった。
 尚美は、先程拾ったメモ用紙をハンカチに包み、両手でしっかりと
握り締めている。
 メモ用紙には、《休暇前に手渡す》と書かれた文字が。
 不安と仄かな期待が入り混じった尚美は、十秒の沈黙を十分のよう
に感じたのか反応のない烏に「奥さんにバレても、知らないわよ!」
と言い放った。
 肌寒く感じるファミリーレストランに、尚美の鼻にかかった声が微
妙に響き渡った。
 店内の蛍光灯が、ポツポツと消えていく。
 ガムテープを貼ったウィンドウ、腑抜けたバナー、整頓されていな
いチェア……。時間的には「看板です」が相応しいだろうが、「廃業で
す」と言った方がずっと自然な感じがするレストランである。
「こんな数字、誰も読めないよ!」
 剣呑な表情の女店長が罵倒した。
「すみません」
 新人のバイトだろうか。まるで米搗きバッタのように頭を下げまく
っている。
「女の子だったら、もっと綺麗な字が書けるでしょ、もう!」
 烏は上司の性別は気にしないが、なまなかな上司には従わない。足
元にも寄り付けぬほどの光芒を放った上司でなければ尊敬はしない。
「週末の話、どうするの?」
 尚美の甘えた声が、烏の耳朶に触れる。
 店内が暗くなって、唯一明かりが点いている二人のテーブルが、ま
るで鄙びた劇場のステージのように映る。
 あと三日で週末を迎える。ランデブーを待ちきれないのは烏ではな
く、尚美の方かもしれない。
「明日は朝から、MDBへ出張だったわね」
 MDBは、東京に本社のある大手家電メーカーである。烏が課長を
務める輸出部中南米課は、MDBのテレビキットを南米のコロンビア
向けに毎月のようにコンテナ単位で輸出している。明日はSKD(半
製品組立て)輸出仕様の打ち合わせの日だ。
「最近は忙しいから、週末も〝東京出張〟ということで、女房も納得
するだろう」
 日頃から悪知恵の働く烏には、週末の淡路島での、尚美との密会に
は大した裏工作は必要なかった。女房への言い訳なら、百でも千でも
言えてしまう烏である。
「お客様、申し訳ありませんが、そろそろ閉店です」
 先ほどのガミガミ店長が、憮然とした表情で言った。
 烏は時計に目を落とし、頷いた。
 店長の細い背中がレジに向かう。俄、烏は何の逡巡もなく尚美の身
体を強く抱き寄せ、分厚い唇を尚美の尖った口元に重ね合わせた。
 心の裡に収まっていた尚美の記憶の引き出しが、スッと開いた。

(つづく)

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